45周年特別企画として連載しているリレーインタビュー。6人目は、入局15年目、事業部長の岡田です。
NICCOを支える想い vol6 – 岡田克彦(事業部長)
Q1 自己紹介をお願いします。
岡田克彦です。2010年に入局し15年目に突入しました。
生まれも育ちも横浜で、家系ラーメン、崎陽軒のシウマイ、有明のハーバー、横浜DeNAベイスターズをこよなく愛してます。
子どもの頃は給食のパンが余っているといつももらっていたことから、担任に「岡田はパンで出来ている」と言われるくらいパンが大好きで、パンの消費量が日本で一番多い京都ではパン屋の数も多く、週末はパン屋巡りをしてます。
趣味は、小学2年で始めたラグビーです。最近では専ら見るばかりですが、日本代表、横浜Eや神戸Sを推しています。オールブラックス(ニュージーランド代表チーム)の芸術的な美しいゲームスタイルが好きです。
▲マラウイ駐在時は、休みの日に子どもたちにラグビーを教えたりしていました
Q2 NICCOに入局した理由、きっかけを教えてください。
入局のきっかけというか経緯になります。
大学を卒業し、民間の損害保険会社に勤めているときに自動車通事故に携わる。
被害者加害者双方の立場から事故解決のための示談交渉業務などを担っていたが、「もっと根本的に困っている人々の役に立つことはできないか」と思い始め、なんとなく国際協力に関心をもつ。
元々、大学の時に国際協力に関心のある留学生の友人がいたのも、潜在的に影響していると思う。
特に、アフリカなどの水道や電気が無い生活のイメージが湧かず、ただ、「そんな暮らしは自分には出来ないな」と途上国に関心を抱く。
しかし、英語が致命的に出来なかったのとラグビー好きが高じて、ニュージーランドへ語学留学という大義名分でワーホリに行ってみる。
今でも自信はないですが、なんとなく英語が分かるようになったので、国際協力の道を目指してみようと思う。
が、よく分からないので、大学の恩師に相談したところ、「ちょうどJICA出身で教授になる人がいるので、その先生の下で学んでみては?」と受験し大学院へ通うことに。
保険会社で働きながら無事に2年で修了した後、JICAで3年間働く(籍はJICE)も、本部での業務しかない職種だったので、やはり、現場に出てみたい、草の根レベルの支援をしてみたいと、NGOを探す。
JICAでは、中東アフリカ欧州でのプロジェクトに関わることができ、特に中東とアフリカに関心が強まったので、それらの地域で活動するNGOを探す。
私には縁もゆかりもない京都の団体(NICCOのこと)が、スタッフを募集しているのを見て応募。中学の修学旅行以来の京都へ。
採用面接では、理事長(当時)にけちょんけちょんだったので「これは無いな」と思い、誕生日が同じというだけで推している坂本龍馬のゆかりの地を巡り、夜行バスで横浜へ帰る。その後、アメリカのNGOに行ってみようと手続きを進めていたが、採用の連絡が来て戸惑うも、とりあえず、飛び込んでみた。
こんな経緯です。
Q3 現在、どのような仕事をしていますか?
2010年に入局して3か月後にハイチに赴任したのち、マラウイ、フィリピン、ケニアに駐在しました。
ロジ会計、プロジェクトマネージャー、事務所代表を務めました。2015年に本部に戻り、国内外で実施しているプロジェクト全体のマネージメント業務を主に担当しています。
2022年からはウクライナ支援のためにルーマニアに、また青少年支援活動を行うヨルダンにも駐在し、ルーマニアとヨルダンを行ったり来たりしていましたが、2024年に再び本部に戻り、再び、プロジェクト全体のマネージメントを行っています。
このマネージメント業務では、NICCOや公益法人としてのルール、助成団体のルールなどに逸脱せず実施できているかの管理や、今後どのように活動していくかなどを決めていくなどの業務を行っています。
また、プロジェクトに携わる者の視点・立場からの広報を行うほか、NICCOの法人として必要な経理、人事、労務、総務など、あらゆることに携わらせて頂いております。
少数精鋭?の小さな団体なので、分業化することも難しく、誰かがやらないといけないので、適任とは思わないものの、経験と思って、幅広くやらせて頂いています。
調査で終わってしまいましたが、レソトにも行かせてもらいました。レソト案件では、王様と王女様が京都に来られた際に、当会事業のプレゼンをすることになり、「国王」「王女」と名の付く方に人生で初めてお会いできた貴重な機会となりました。
▲フィリピンでの台風被災者支援で被災者に救援物資を届ける岡田
Q4 これまでに最もやりがいを感じたエピソードを教えてください。
自然災害における緊急支援として携わったハイチ(地震)やフィリピン(台風)では、物資配布や仮設住宅・仮設校舎の建設など、支援の成果が見えやすく、被災者からの感謝もすぐに受け取れるので、やりがいは感じやすいです。特に、被災現場での支援なので、支援物資や資機材などが入手しづらく、同僚たちと苦労して苦労して調達し届けることができた時などは、安堵もあり、達成感もあります。
一方で、私の中で最も長く、およそ3年間、現場で携わったマラウイでの村落開発支援プロジェクトでは、水、衛生、保健、環境、収入など対象となる村のあらゆる課題に取り組むものでした。日本人とマラウイ人のスタッフたちと、村に配属されている先生や開発普及員、そして住民たちと、転んでは起き転んでは起きの繰り返しでした。このプロジェクトは成功するのだろうかと疑心暗鬼な日々。失敗しても笑って前に進むしかない、そんな毎日でした。
収入向上を目的に、現地で採れる農作物を加工して、紅茶や石鹸など色んなものを手作りで作って売るのですが、学校に通えなかったお母さんやお父さんたちとの共同作業なので、計算はおろか、定規やハサミなども上手に使えず、日本人ってしっかり教育されているんだなと学んだ瞬間でした(逆に、私のサトウキビの食べ方は下手で、そんなものも上手に食べれないのかと笑われました)。そんな中でも、日本人の心が少しでも伝わればいいなと村の住民たちに「One for ALL, ALL for One」と「KAIZEN」を繰り返し伝えていました。「1日1個KAIZENしよ。今日、KAIZENした?」みたいな感じです。言ってる自分が一番出来ていないような気もしながら。
そんな中、村人たちを連れて、遠く離れた町で行われた物産展に出店しました。自分たちの農村しか知らないような人たちを町に連れて行くのはなかなか大変でしたが、いっぱい商品が売れただけでなく、他のお店ではどんなものを、どんな工夫をして売っているのかなどを視察し、話し合っている姿などは嬉しかったですね。
そんなこんなでわずかでも収入が増えたようで、「夕飯のおかずが一品増えたよ」なんてことを聞けると、こんな私でも役に立てたのかなと思えました。
プロジェクトが終わるとき、村の学校の先生から、「学校の名前(村の名前?古くて忘れました)を「OKADA」にするから活動を続けてほしい」と言われたときは、「僕に何のメリットもないよ」と言いつつも、少し嬉しかったですね。名誉ではありますが、丁重にお断りしました。
▲マラウイ駐在時代。ドーワ県の村人と一緒に都市のブランタイヤで開催されている物産展に参加。(前列一番左が岡田)
Q5 今後、NICCOを通じて達成したいことは何ですか?
今後の日本を担う若者たちや、様々な経験・知識・技能をもたれた先輩方が、途上国や国内の脆弱な人々を助けたいと思う気持ちを体現できるプラットフォームと成れるように、NICCOという箱を作り上げたい。
Q6 NICCOを応援してくださる皆さんにメッセージをお願いします。
いつもご支援を賜り、誠にありがとうございます。NICCOは、事務局員だけで作られているのではなく、ご支援くださる皆様の思いを形にする場と思っております。
ぜひ、みなさまも活動にご参加いただき、みなさまと共に、みなさまの思う支援が届けられればいいなと思っております。機会があれば、ぜひ、ご参加ください。